こんにちは、KIKOです。いつも記事を読んで頂きありがとうございます。
カンブリア宮殿6月22日(木)23:06〜23:55放送では、浜野慶一社長(浜野製作所)が 出演されます。
どん底から蘇った町工場・浜野製作所ですが、現在では世界トップシェアのメーカーや、宇宙開発関連の企業など、誰もが知っているような超有名なクライアントを多数持つ町工場に成長。
浜野慶一社長の「おもてなし」精神で、ものづくりを下支えする町工場の火を消してはいけないと奮闘し、現在も新しい町工場のあり方を模索し続けてると言います。
そんな浜野製作所や浜野慶一社長がモデルとなったのが、テレビで大ヒットした「下町ロケット」の佃製作所でしたよね。
今回は浜野慶一社長(浜野製作所)の気になる
・プロフィール
・大学
・経歴
・おもちゃ箱をイメージしたとは?
等について調べてみました。
目次
浜野慶一社長(浜野製作所)プロフィール
出典元:https://note.aktio.co.jp/business/20200708-1550.html
名前 | 浜野慶一(はまのけいいち) |
生年月日 | 1962年11月12日 60歳(2023年6月現在) |
出身地 | 東京都墨田区 |
会社 | 式会社浜野製作所・代表取締役 CEO |
浜野慶一社長(浜野製作所)家族
浜野恵一社長は結婚されて、妻、長男・次男・長女との5人家族です。
妻の家系は父親を筆頭に医者一家だそうです。
また、自身の弟も医者なんだそうですね。
長男は医学部卒で医者として働いてるようです。
次男は歯学部へ進まれてるので、現在は歯科医院開業されてるのかもしれないですね?
息子さんたちが医者の道に進まれたことで、会社を継ぐのは娘さん?
浜野慶一社長曰く、それは考えてないそうですが、誰かに継いでほしいという気もちは心のどこかに残ってるのも事実といわれてました。
浜野慶一社長(浜野製作所)大学
出典元:https://manabi.benesse.ne.jp/daigaku/school/3278/gakubu/gakubudt/19.html
浜野慶一社長(浜野製作所)は東海大学政治経済学部経営学科卒業後。
偏差値45.0~47.5
落語家の春風亭昇太さんやミキの亜生さも、東海大学の卒業生なんですね。
浜野慶一社長(浜野製作所)経歴は?
浜野慶一社長(浜野製作所)は、東海大学政治経済学部経営学科卒業後、東京都板橋区の精密板金加工メーカーに丁稚奉公のような形で就職。
大学卒業後はサラリーマンとして働くつもりでいたそうで、内定までもらってたようですね。
浜野製作所を継ぐ決意をされたときには父親から、こういうアドバイスをもらってました。
「まずは10年間、でっち奉公してこい。小さな会社は、社長が図面を見たり、ものを作ったりできないことには、職人とも客とも話ができない。お前の時代には、量産の部品加工の注文はどんどん海外に流れるだろう。少量多品種向けの部品加工ができる精密板金を学べ」
引用元:https://change.asahi.com/articles/0009/
家を出て8年目、1993年創業者である父、浜野嘉彦氏が52歳で他界されたことで、
株式会社浜野製作所代表取締役に就任し現在に至ります。
浜野製作所を継承した後にはいくつもの試練に見舞われた浜野慶一社長。
バブル景気が崩壊し量産部品の仕事は海外にシフトしていき雇っていた職人は、高齢のために退職。
ハローワークに求人を出すも見つからず、途方に暮れてたときに、板橋区の町工場で一緒だった5歳年下の板金職人、金岡裕之さん(現専務取締役)に連絡し、働いてもらえることに。
新しく出発していこうと思ってた矢先の、2000年6月隣家からのもらい火により工場が全焼。
火災の損害賠償金がもらえるはずでしたが、住宅メーカーの倒産で賠償金がもらえず。
先行きが見えないなか、金岡裕之さんの言葉に救われたといいます。
「金のためにここに来ているんじゃない。あんたと一緒に仕事をしたいから、ここにいる。浜野製作所はまだつぶれてませんよ」
引用元:https://change.asahi.com/articles/0009/
当時の浜野製作所は、売り上げの9割を半導体関連メーカー1社に依存していたそうで、火事が起きたことで取引先上司は仕事をほかの下請けにフリわけるように指示。
そこを、取引先の課長が「どうか仕事を出し続けてやってほしい」と上司へ懇願したんだそうです。
当時の課長の後押しがなければ、現在の浜野製作所はなかったとも言われてました。
それからは借金と新規の仕事を受注するための営業の毎日。
そんな中、短期で1回だけの仕事をお願いされ、2週間後の納期意をインパクトを残すために1週間後に納品。
そういう仕事が4、5回続いた後に、『便利屋的に使ったら申し訳ない。継続的な仕事を少しずつ頼むからお願いするよ』と言われるまでになったそうです。
新しい顧客とのご縁をつなぐには、少量多品種が一番入りやすいと、亡くなった父親が言ってたことを実践されたのと、浜野慶一社長の人柄と一生懸命な姿勢が、継続的な仕事受注に繋がっていったんでしょうね。
浜野製作所の経営理念は、「おもてなしの心を常に持ってお客様・スタッフ・地域に感謝・還元し、夢(自己実現)と希望と誇りを持った活力ある企業を目指そう!」だそうです。
これは火事の教訓から生まれたそうで、取引先、従業員、地域の支えで苦難を乗り越えてこられたからだそうです。
2014年にGarage Sumida(ガレージスミダ)としてインキュベーション施設を設けてます。
そこでは、
コミュニケーション型ロボット「OriHime(オリヒメ)」を開発した「オリィ研究所」
次世代型電動車椅子、パーソナルモビリティーで知られる「WHILL(ウィル)」
羽根のない風力発電機の「チャレナジー」
次世代ドローン開発の「エアロネクスト」などがいました。
また、自社の強みを活かした様々なプロジェクトに挑戦し、産学官連携としての電気自動車 「HOKUSAI」、無人深海探査艇深「江戸っ子1号」。
異業種連携としてアウトオブキッザニアによる工作教室、工場巡りツアー・スミファを主催する「配財プロジェクト」。
ベンチャー企業を支援する「Garage Sumida」とその取り組みは多岐に渡ります。
異業種とのコラボレーション企画を展開するなど、町工場の新しいビジネスモデルの創出にも取り組んでいます。
2018年には天皇陛下も視察に訪れてました。
浜野製作所の取引先は現在約4500社まで拡大し、大学、ベンチャー、大手企業など様々な取引先との間で仕事の幅を広げ続けているということです。
浜野慶一社長(浜野製作所)おもちゃ箱をイメージしたとは?
浜野製作所の外観がカラフルで、板金工場のようには見えないのが特徴。
それは過去に、従業員採用に関して苦い思い出があったからのようです。
会社を引き継いで間もなくの頃、求人募集にやっと1人応募してくれた方が浜野製作所を見ただけでそのまま帰ってしまったこと。
「うちの工場が夢も希望もない職場に見えたのかもしれない」、入口の時点で工場の油まみれの床を見たりすると、楽しいとは思えないのはダメだと。
その時に思ったのがおもちゃ箱のようなワクワクするイメージの工場を作ろうでした。
工場でものを作ることはとても楽しい仕事。
シャッターの奥ではどんなことが行われてるんだろうと思ってもらえるような工場にしたいと強く思われたようです。
パット見は風水で色を決められて、会社の繁盛を願われてるのかな?と思ってしまいました(笑)
カラフルな色で板金工場のイメージはないですよね?
浜野製作所 第一工場。
浜野製作所 第二工場。
工場内の階段の壁面にもきれいな色彩のグラフィックが描かれてます。
出典元:https://note.aktio.co.jp/business/20200708-1550.html
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