本多正識(ほんだまさのり)氏をご存じですか?
関西のお笑い界では知らない人はいないというほどの有名な方です。
漫才作家と講師、時々公演も行う、よしもとNSC(吉本総合芸能学院)の名物講師して、多くの芸人を育てています。
今回は「本多正識(ほんだまさのり)よしもとの漫才作家で講師!多くの芸人を育てた」について書いてみます。
目次
本多正識漫(ほんだまさのり)先生はよしもとの漫才作家
本多正識(ほんだまさのり)さんが漫才作家を志したのは、1979年にラジオ大阪「Wヤングの素人漫才道場」コーナーに11本連続で漫才台本が採用されたことがキッカケでした。
1958年生まれの本多正識(ほんだまさのり)さん、当時21歳と言う年齢で漫才台本採用は、素人ながら笑いのツボを押さえてらしたと言うことですよね、素晴らしい!!
その後、本格的に漫才作家を目指すために大阪シナリオ学校通信教育部へ入学・卒業されています。
1983年に漫才作家集団「笑の会」に参加し、漫才作家としてスタートします。
1984年には中田阪神・巨人やカウス・ボタンやオールと言う、関西漫才界の重鎮たちの漫才台本に、吉本新喜劇や大御所芸人などの漫才台本を書かれて現在に至ります。
本多正識(ほんだまさのり)先生はNSC講師
出典元;https://japaneseclass.jp
本多正識(ほんだまさのり)先生は、1990年よりよしもとNSC(吉本総合芸能学院)の講師を務め、2008年からはYCC(よしもとクリエイティブカレッジ)の講師もされています。
YCC(よしもとクリエイティブカレッジ)は、主にビジネスを習う学校ですね。
漫才作家と講師として働く本多正識先生は、関西お笑い界では名前を知らない人はいないほど有名な方です。
NSCでの授業は、どんな風に行ってるのか気になりますよね?
本多正識(ほんだまさのり)先生の授業は初回に、NSCに来ていることを幸せに思う、きちんと挨拶をするなど本多版の『芸人としての心構え20』という基本を伝えて、あとはネタ見せをするだそうです。
ですが、ひとつだけルールがあると言います。
「人を“さらし者にして笑う”ことは、人としてやめておこう、ということだけは指導します。お客さんが一生に1回しか見ないかもしれない生の舞台。そのとき面白かったと言ってもらいたいですから。スーパーマラドーナがツッコむ時に『殺すぞ』を使っていたのですが、関西人でもあまりに表現がキツいので『しばくぞ』に変えてと言いました」
引用元:https://www.nikkan-gendai.com
本多正識(ほんだまさのり)先生は怖い先生?
キングコングの西野亮廣さんは本田正則先生のことを、「怖い先生」だとおっしゃってましたが本当のところはどうなんでしょうね?
当時の西野亮廣さんについて本多正識先生はこう言われてました。
「とても自信家だったので絶対褒めてはあかん!」と思ったんだそうですよ!!
それが原因で、西野亮廣さんからすると怖いという風に思われてたんでしょうね。
本多正識(ほんだまさのり)先生からすると、自信家からうぬぼれに変わって行くことを心配されてたのかもしれませんね?
本多正識(ほんだまさのり)先生はお笑いの審査員も務めていました。
「M-1グランプリ」「キングオブコント」「THE MANZAI」
本多正識(ほんだまさのり)先生は多くの芸人を育てた
本多正識(ほんだまさのり)先生はNSC(吉本総合芸能学院)の講師として、1万人以上の生徒を送り出してきました。
その中でも本多正識(ほんだまさのり)先生が売れると思った芸人4人がこちら!
1、ナインティナインの岡村
2、キングコングの西野亮廣(当時 グリーングリーン)
3、カジサック(当時 NINNIN丸)
4、友近
みなさん、入学当時から人とは違う何か、オーラを出していたんですね。
ナインティナインの岡村隆史さんには「ボケとツッコミ逆や」と言い、ツッコミからボケに転向させたことで、現在の二人がいるんですね。
そのほかにも的確なアドバイスをされ、売れる芸人を育てています。
藤井隆さんをオカマキャラに抜擢。
アンガールズを東京に進出させたのも本多正識先生の功績です。
数多くの吉本芸人は本多正識(ほんだまさのり)氏の存在なくして語れませんね。
本多正識(ほんだまさのり)先生は書籍も出版
・よしもと芸人に学ぶ生き残る力」(扶桑社 2014年)
・「芸人志願~お笑いタレントを目指す君へ~」(鉄人社 2014年)
・「笑おうね 生きようね:いじめられ体験乗り越えて」(小学館 2018年)
・「素顔の岡村隆史」(ワニブックス 2018年)
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